一般社団法人日本琺瑯工業会

琺瑯の歴史

お問い合わせ

ほうろうの歴史

ほうろうのなれそめ

 ほうろうは漢字では「琺瑯」と書きます。覚えてしまえば簡単ですが、一見すると難しそうな字。さて、この「「琺瑯」という言葉、どこからきたのかといえば、実は定説がないのです。最も有力なのは、日本のほうろうに関する代表的な名著である森盛一氏の「琺瑯工業」という本に載っている説で「琺瑯という言葉は七宝質という意味で、梵語で七宝質のことを払菻嵌といい、それが次のようにかわったという解釈:「払菻嵌→払菻→発藍→仏郎嵌→法郎→琺瑯」

教科書などにもこの説が採用されています。このほかにはビザンチン帝国から転化したのではないかという説。7世紀ごろの中国の歴史家は、七宝工芸が非常に盛んであったビザンチン帝国のことをFu-linと呼んでいたためです。(Fu-linと前述の払菻にご注目を!)同様に国の名前が転化したものとされるのにフランク王国のフランクがなまったという説があります。ただしフランク王国では七宝が盛んだったのは12世紀。時期的にはビザンチンのほうが早いといえましょう。その他諸説がありますが、何しろかの有名なイギリスのブリタニカという百科事典にも「言葉の由来そのものははっきりせず論争のまととなっています・・・」と書かれているくらい。どなたか、これぞ決定版!という説をうちたててもらえませんでしょうか。

はるかなるほうろうの旅

はじまり

 

ドイツのケルン市立博物館刊行のほうろうカタログ(EMAIL:Kunst・Handwerk・Indstrie Koelnisches Stadtmuseum 1981)によると、ほうろう掛けされた最初の金属は、金及びエレクトロンと呼ばれた金と銀の合金、稀に銀で、その後になってブロンズ、真鍮や鉄もケルト人やガロア人のほうろう加工に使われたようです。

同書によると、現存するほうろう加工の最も古い証拠品は、エーゲ海のミコノス島の発掘品に由来し、紀元前1425年頃と推定されています。これは金の表面の凹みに青色のほうろうが充填されたもので、原材料の青色ガラスは、ミケーネ文明を彩る小さな玉や、飾り板に使われたのと同じです。

 こうしてミコノス島で発見された技術は、以後東はキプロス島、西はギリシャ本土へと二手に分かれて中東から遠く中国へ、片方はフランス、ドイツへと広がったと推定されています。

 日本にも来ましたね。ツタンカーメン王の黄金マスク。まばゆいばかりの美しさで私たちを圧倒した。あの黄金マスク(BC.1300年ごろ)が実はほうろうの最初期のものなのです。

  黄金マスク以外にも、エジプトでは世紀前にほうろう製品がいろいろつくられていました。と申しても、この時代のほうろうは、現在、一般的に使われている鉄ほうろうとは違い、金・銀の金属質にエナメル質ガラスを加工したもので、いわゆる金細工工芸に類似した一種の七宝でした。この様に、エジプトで生まれたほうろうは、その後、文化の中心が移行するにつれて、世界中へと伝播をしてゆきます。6世紀、世界の文化の中心はビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都・コンスタンチノーブル。この地で花ひらいた七宝工芸は、やがて11世紀ごろからフランク王国(後の仏・伊・独)に移り、さらに大輪の花を咲かせることになります。しかしながらこの時代のほうろうも、金・銀・銅を下地とした高価な工芸品や装身具(指輪・たて・馬具)が中心で、庶民とは縁のうすいものでした。

 一方、ほうろうの東への旅は6世紀末に始まります。サラセンやビザンチンから、シルクロードをはるばる旅して隋(580618年)に伝わったほうろうは、唐・宋と受けつがれ、明時代には中国独自の七宝技術が開発されるまでに発展します。もちろん、中国も例にもれず、ほうろうの目的は美術・装飾が主でした。さて、隋から朝鮮半島を辿ったほうろうは、いよいよ東の果て日本に上陸することになります。

飛鳥時代、日本へ

 

 ほうろうが日本に姿を現わしたのは聖徳太子の飛鳥時代。しかし、飛鳥時代といえば、今から1400年も昔。実のところ、この時代のほうろうについてはあまりよくわかっていません。はっきり、ほうろう(厳密にいえば七宝)と分かるもので世界的に有名な最初期の作品は、正倉院の十二陵鏡。およそ奈良時代(8世紀)までにわが国でつくられたものといわれています。その後、ほうろうは歴史の表面から消えたりもしましたが、桂離宮のふすまの引手や釘隠しなどにも使われながら、着実にほうろう独特の美観と機能を人々に印象づけていきます。江戸時代には刀のツバや印籠、煙草入れにまで用いられるようになりました。しかし、ほうろうが装飾としての七宝から別れて独自の道を歩み出したのは、明治になってからのことです。つまりこのころからやっと、鉄を素材にした鉄ほうろうが実生活の分野にも進出し始めました。

こうした傾向は世界的にみられ、どこの国でも18世紀まではただひたすら美的なものとしてのみ、ほうろうは扱われ、人々の関心は装飾の美に傾注していました。実用品としてのほうろうの歴史はきわめて新しく、鉄板の製造技術の開発(17351856年)やソーダ灰の製造法(1792年)、ほう砂の精製法(1860年)の発明と時を同じくしています。

 

装飾品から実用品へ

 

 実用化の第一歩は、イギリスからでした。鉄のサビ止めとして応用されたのが始まりです。その後、ドイツ・オーストリア地方を中心にほうろう工業は発展し続け、1924年の大量生産方式の確立とほうろう用純鉄の開発、1948年のチタン釉薬(うわぐすり;後述)の開発などにより、新しい優れたほうろうが次々と生産されるようになったのです。

ヨーロッパに遅れること50~60年。日本では1866年に桑名の大鍋屋広瀬与左衛門が鋳鉄ほうろう鍋をつくったのが最初です。ついで1885年、大阪の小田新助によって鉄板ほうろう鍋が開発され、1890年には陸海軍の食器として使われるまでになりました。

 以後、わが国のほうろう工業は幾多の変遷を繰り返しながら現在に至っています。50年前、創成期のころは、洗面器、スープ皿、ライス皿、茶瓶、弁当箱などが主力商品。中には粗悪品もあり、そのおかげでほうろうといえば“はげ易い”というイメージがずい分あとまで残ってしまいました。 しかし、その後、自動化の促進と学術的基礎研究の結果、次々と改良品や新製品がつくられ、品質も格段に進歩しました。すなわち、今までアンチモンほうろうが上白ぐすりの主体であったものがチタンほうろうに転換され、衝撃に対する強度が著しく大になりました。一方、技術的に大量生産が困難とされていた鋳鉄ほうろうも可能となり、さらにまた、耐酸ほうろうの誕生出現までを見たのです。こうして、従来にない優れた性能を発揮し始めたほうろうは、急速に活躍分野を広め、さまざまな方面から求められるようになりました。ほうろうならではの特性と、それを裏打ちする高品質が認められたのです。今では、鍋や浴槽などはもとより、タンク、化学機器、燃焼機器、建材、医療器具など、生活の、産業の、たくさんの分野でほうろうが使われています。私たちの暮らしに、ほうろうの美しさと優れた性質が一役も二役も買っているのです。


工業会紹介

OUR BUSINESS

お問い合わせ

CONTACT

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。